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2012年03月10日

過ぎ去りし昭和30年代に、

先ほど、小庭に雨が降る情景をぼんやりと見たりした後、
机の脇にある本棚から一冊の本を取りだして、見たりしていた。
正井泰夫(まさい・やすお)氏が監修された『東京の昭和』(青春出版社)であり、
副題として『図説 地図で暮らしを読む東京の>昭和』と題されている。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みで、
1944〈昭和19〉年に生を受けた67歳の身であるが、
定年退職した翌年の2007〈平成17〉年の晩秋に、
たまたま本屋で見かけて、懐かしさの余り買い求めた雑誌であった。

先ほど何気なしに《路面電車》のページを読んだりしていて、
そうだったよねぇ、あの頃は都心でも盛んに『都電』が走っていたよ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

都心に住む若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が地元の小学校に入学した19ね51〈昭和26〉年の春、
この頃から母に連れられて京王線の金子駅(現在・つつじが丘駅)から新宿駅まで乗車し、
母はデパートなどで、年に数回ぐらい買い物をしたりしていた。
或いは父の妹の叔母に連れられて、親戚が筋膜炎住んでいる高幡不動駅まで電車に乗ったりしていた。

その後、私は小学4年の頃から、圧倒的に映画に魅せられて、
独りで映画館に行ったりしていたが、あくまで近場の布田駅、調布駅、
或いは千歳烏山駅の映画館であった。

私が小学6年の1957(昭和32)年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

この頃の私は、電車に乗ってきたが、乗り物に酔いやすい少年であった。

次兄に導かれて、私は京王線で新宿駅まで30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったたりした。

新宿駅より西口の地下ガートを通り、確か歌舞伎町の前の大通りの中央に、
都電の新宿駅があり、築地駅、月島(通り8丁目)駅方面に行ったりしていた。
そして私たちは数寄屋橋駅まで利用する為に乗車した。
確かこの当時の都電の電車賃は、終点の築地まで乗っても、13円と記憶している。

私は初めて乗った都電は、一両編成で大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。
普通の電車のように枕木、砕かれた石などの弛緩材などはなく、
敷石の間に線路を敷いていたのでwebsite promotion、揺れるのであった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は言った。

『もうちょっと・・我慢してよねぇ・・』
と次兄は言った。

次兄が私に言った言葉の中には、一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
意味合いの言葉が含まれていたので、私なりに我慢をしていた。

私はどんよりとした曇り空り中で、皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋駅のひとつ手前の日比谷駅で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋のガートの近くの映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、と判明した。


こうした私は都電で関して苦い体験をしたので、
この後も都電を観るたびに、苦手意識を持っていた。

その後、私は1960〈昭和35〉年の春、都心の中野にある高校に入学した。
京王線のつつじが丘駅か仙川駅から新宿駅まで乗車した後、
西口が5分ぐらい歩いた先に青梅街道の大通りがあった。

この当時は、この西口の大きなガード下に近い場所に、
新宿駅から荻窪駅までの都電の路線があった。
私は中央線の新宿駅から中野駅まで乗車することがあったが、
大半はこの都電の路線で通学していた。

新宿駅より混雑時には二両連列となり、新宿駅の街並みを離れ、
商店街の情景に変わったが、この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
私は車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られたせいか、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業した1963〈昭和38〉年の春を過ぎて、まもなく地下鉄が開通して、
この区間の都電は廃線となった。

この間、私は青梅街道の都電の新宿駅の近くに『小田急デパート』(現在・小田急ハルク)が
1962〈昭和37〉年に開店したりしていたので、
やがて西口、周辺はどのように変わり果てるのか、私は戸惑いを覚えたりしていた。

そして新宿の西口の郊外にあった淀橋浄水場は移転された後、
後年に西口の高層ビル群、そして都庁も移転してきて新宿副都心として大きく変貌した。  


Posted by hagdG at 13:48Comments(0)